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 第484号・目次
【 書評 】 桜田 薫『小室直樹の中国原論 』(小室直樹著 徳間書店)      
【私の一言】 幸前成隆 『与うる所を視る』

               

【書 評】
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◇             『小室直樹の中国原論』
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(小室直樹著 徳間書店)
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                       桜田 薫

 天才社会学者と言われた小室直樹の著書が復刊された。ほぼ30年前の出版だが中国と中国人が「科学的」に分析されていて、現在の日中関係を考える上で不可欠な知識が詰まっている。「史記」をはじめ中国の歴史書には現代に通じる社会法則が記されており、王朝は変わっても中国の本質は変わらない。中国理解には、人間関係の「ホウ(邦の下に巾)」と「宗族」、そして政治における「儒教」と「法教」の理解が基本である。日本人や欧米人には理解困難な概念だが、本書は中国で人間関係が契約より重視され、法律より人治の国である謎を明らかにする。

 人間関係の鍵となるホウは、生死を共にした三国志の劉備、関羽、張飛の関係が典型で、ホウ内の人間関係は極限的盟友の段階である。一方、ホウ以外との人間関係は、窃盗、略奪、強盗、虐殺なにをしてもかまわない。それが倫理、道徳になる。砂漠の民、古代べドウィンの規範と同じで、倭寇もあまり違わない。できるのに略奪、強姦、虐殺ができない人間はたいへんな不倫、非道徳とされ、前近代社会においては、どこでも普通の規範だった。ホウ内とホウ外の規範は全く違って、共同体は2重規範で成立している。約束は人間関係次第で反故にされ、騙されて中国人は信頼できないという
人や、反対に中国人は絶対に信用できるという日本人が出てくる。要するに中国では人間関係がすべてで、ホウのような関係ができれば契約は必要なく、口約束でもよい。
ホウ以外にも「知人」、「関係」、「情誼」というホウより緩いが結合の深さによる人間関係の段階がある。利害を基礎におくが「情誼」の結合内では約束は必ず守られる。しかし外国人が「関係」、「情誼」の段階まですすむのも容易でない。

 要するに取引では個人的結合の人間関係が重要ということだ。売買で相手によって値段が変わるので一物一価の原則は成立しない、特定集団の規範が社会の普遍的規範より優先される。これでは中国には「契約を守るべき」という市場経済の基本原則がないことになる。
「宗族」は父系の血縁社会のことで同一性を名乗り、ホウと並んで中国理解の重要な鍵となる。中国人は皆どれかの宗族に属し結合は固い。何代たっても兄弟意識、同族意識を失わない宗族は中国独特の人間関係を形成し、日本社会との根本的な違いになる。その詳しい理解は重要だが、長くなるので省略し、以下に政治・経済の話題を紹介する。

 中国の統治機構は、表向き儒教(良い政治をする)によるが、裏にある法家の思想(陽儒陰法)との二重構造だ。その思想を代表する戦国時代(紀元前5世紀)の韓非子は、儒教の根本規範である「礼」に代えて「法」の重視を主張した。「法」は君主が臣下を支配する根本原則で、その運用方法として役人操縦の「術」と合わせて世を統治する。この法律の成立は、君主論を書いた中世のマキアベリより2千年以上も前だ。
法家の思想の根本は信賞必罰ということで、現在の中国の法律が刑法中心になっている理由でもある(資本主義経済では民法が基本)。これには罪刑法定主義も近代的所有概念もなく、法律の解釈が役人の権限になっており、この伝統は共産党独裁の現在も続いている。中国固有の王朝として最も隆盛を極めたのは明だが、その統治は儒学をイデオロギーの名目とした法家思想によるものだった。(著者は、平安時代も徳川時代も儒学(朱子学)一辺倒で日本は政治音痴になったという)。しかし欧米の近代法とあまりにも違うことが問題で、現代まで生き残ってきた法家の思想によって中国は近代国家になり損ねた。中国人は、法律が政治権力から国民を守るためのものであり、その精神は権力に対する人民の抵抗とは考えない。法律の解釈はすべて役人(行政官僚)が握っているので(日本にもその部分があるが)、中国との商売で日本の企業が苦しむ。対等な当事者間の合意に基づく資本主義的契約の概念がない。資本主義における「契約の絶対性」は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の経典宗教におけ
る神との契約の絶対性から生まれたもので、神との契約(バイブル、トーラー、コーラン)のように成文化されている(文書による)のが特徴だ。契約は「破ったか」「破らなかったか」のどちらかで、権利、義務、所有など基礎概念はすべて2分法的である。この契約の概念を受け入れることは中国人(日本人にも多少)には困難なことだと、著者はいう。

 しかし私たちが常識としている所有権や契約の絶対性という資本主義のルールも歴史上は特殊なもので、近代以前には無かったことを想起する必要がある。資本主義のルールが「天の理」と信じて中国のルールを間違っていると主張すれば中国人とのコミュニケーションはできない。実は資本主義以前の日本人も分かっていないことで、著者は一例として徳川家光から褒美にもらった間垣平九郎の馬をあげる。将軍拝領の馬を彼が勝手気ままに使用できるとは考えられないが、それは所有と占有の明確な区別がないからだ。所有概念の欠如は資本主義後進国ではありがちで、所有は2分法的でない。中国に盛んな汚職も同じ所有概念の欠如が根本原因だ。役得と同じくどこからが自分のものかはっきりしない。科挙の制度があった時代に高級官僚は数が少なく、地方に派遣され主な仕事は税金を中央に送ることだった。当時は国の会計と個人の会計の区別がなかった。地方の長官を3年勤めれば清廉潔白な人でも3代にわたって家が持つといわれた。中国には汚職の概念がなかった。国家予算の何年分という日本では考えられない巨額の賄賂もあった。

 著者は最終章(本書は1990年発行)で中国の不良資産の増加や財政赤字をあげて、中国政府は経済理論の理解が大切という。複式簿記の採用や産業連関表の活用、前提として正確な統計作成などを提案するが、現在は30年前より進歩しているだろう。しかし前述のように今も資本主義的契約が守られないことや事情変更の原則がある。契約を破ってよいとされるのは、中国の契約が人間関係を固め交渉をスタートさせるという意味だからだ。中国では裁判に勝っても無駄、国際仲裁裁判所が裁定しても実効性をもたせることもできない。社会構造も社会組織も規範の変化もなく、法律も本質的には変わらない。「持続の帝国(へーゲル)」だから同じことが反復する。人民革命や文化革命が起きても中国史を貫く社会法則は不変である。中国の市場経済への道は遠い。
以上は本書の紹介として不十分で、興味深い論点が多く残されている。実例や逸話が多くて記述も分かりやすいので、ぜひ本書の一読を勧めたい。

 
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆【私の一言】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

         『与うる所を視る』
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                      幸前 成隆

「富みてはその与うる所を視る(李克)」。

「富めばその養う所を観る(呂氏春秋)。
金ができたとき何に使うか。その使い方で、人物が分かる。

 通常の人は、自分の私欲のために使う。多くは、これまで抑屈させられて来た欲望を、この際一挙に果たそうとする。豪邸を建て、ブランド物を買い、豪遊し、酒食にふける。
また、私利を増やすために、利殖、投資に走る人もいる。
 

「金の使い方ほど難しいものはない。人格が、そっくりそのまま反映する(伊藤肇)」。

 徳ある人は、人のために使う。
「富めるは、よく施すをもって得となす(呻吟語・修身)。
 史記に、范蠡の故事がある。范蠡は、越王句践が覇王になった後、越を去り、
「斉に適きてし夷子皮となり、陶に之きて朱公となる。…十九年の中に、三たび千金を致し、再び分散して貧交疏昆弟に与う。これ、いわゆる富めば好みてその徳を行う者なり」。
 また、世説新語には、宗の劉凝之が衡陽王から銭十万を餉られて、市内の飢色ある者に分与した話がある。

 最上の使い方は、人の育成に使うことである。
「終身の計は、人を樹うるに如くはなし(管子)」。
米百俵の教えがある。戊辰の役後所領を減らされた長岡藩に、米百俵が届いた。これをどう使うか。藩士に分けるべしとの意見が強い中で、小林虎三郎が一人反対して、人材育成に充てた。
 金は生かして使うことが大事である。


 編集後記
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 世論調査万能時代のようで、新聞各社など多くのメディアは毎月政党支持率等の調査結果を発表しています。ただ、現在の世論調査はその方法、設問の仕方等からその調査結果は、popular sentiment「世の中の雰囲気」と理解するのがいいようです。
法政大学名誉教授奥 武則氏は、「メディア史研究者の佐藤卓己さんによれば、「世論(せろん)」は popular sentiment であって、public opinionを意味する「輿論(よろん)」とは違うもの。この区別から言えば、いまメディアが定期的に行う世論調査なるものは、たかだかそのときどきのpopular sentiment (「世の中の雰囲気」といったところか)を可視化しているに過ぎないと言える。」と指摘されています。
 我々は、現代の世論調査の結果に一喜一憂することなく、その上昇とか下降といったトレンドは注視するものの、一方では、いろいろな手段・方法でpublic opinionを知る努力を重ねる必要があるということでしょうか。
今号もご愛読・寄稿などご支援ご協力有難うございました。(H.O)

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 第485号・予告
【 書 評 】  亀山国彦『桜のいのち庭のこころ』

            (佐野藤右衛門著 草思社 初版1998.4.6)      
【私の一言】 幸前成隆『よく人を用いる 』
               
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